韓国ドラマを見ていると、犯罪捜査で監視カメラの映像を確認する場面がよく出てきます。
このカメラはCCTV(closed-circuit television)と呼ぶのですが、その設置は日本とは比べものにならないほど、すごいようです。
日本に比べて韓国は監視が行き届いた国といえそうです。
もちろん、犯罪者がいたら、すぐにその個人を特定するのに役立つ監視カメラはたくさん設置されていた方が安心できそうです。
一方、大多数の一般市民にとっては、日常生活を監視されていると思うと、かえって住みにくいと感じるかもしれません。
ですので、どこまで国が国民を監視するかの答えを見つけるのは難題だと思います。
そこで思うのは、人間の本性は善なのか悪なのかということです。
孟子の唱えた「性善説」と荀子の唱えた「性悪説」ですね。
もし、人間の本性が善であれば、監視カメラの設置は控えめにした方がいいと思います。もちろん、生まれたときの本性は善であっても、その後の生活環境によって悪人になることも考えられますので、監視カメラをゼロにする必要は無いと思います。しかし、必要以上にカメラを設置するのは、無駄なコストをかけていることになります。
逆に人間の本性が悪ならば、監視カメラが街中のいたるところに設置していた方がいいですね。外から監視カメラが見えるように設置するのと同様に、見えないところにも設置をしておいた方がいいです。一般市民には常に自分は監視されていることを意識させることで犯罪の抑止効果が期待できます。
一体、人間の本性は善なのでしょうか?それとも悪なのでしょうか?
たとえば、これも韓国ドラマでよくあるシーンなのですが、街を歩くカップルいて、車道に出ようとした女性をめがけて猛スピードで突っ込んでくる車から、彼女の身を守ろうと腕をつかむ男性がいます。
このシーンですが、人間の本性は善であることを象徴する光景に思えます。
なぜなら、彼女を助ける男性がとる行動はとっさに出たものであり、そこにはー
- ここで彼女を助ければ、自分の評価があがり、好意を引き出すことができる。
という腹黒い打算のかけらも存在しません。
とっさの行動で人を助ける本性は多くの人間に備わっている要素だと思います。
このことから、人間の本性は善なんだと思うことができます。
がしかし、、、人間の本性が善といいきってしまうには違和感があります。
もし、人間の本性が本当に善であるのであれば、いまの学校教育のシステムは、抜本的に見直した方がいいと思います。
教育基本法(昭和22年教育基本法制定時のときの目的)の第一条は以下の条文です。
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
- 真理と正義を愛すること
- 個人の価値をたつとぶこと
- 勤労と責任を重んじること
- 自主的精神に充ちること
要は人間の本性が善なら教育そのものの目的がすでに備わっていることとなり、教育はいらないということになってしまいます。
また、学校では宿題やテストを生徒に課して、成績(ランキング)をつけるような指導が行われていますが、それこそ余計なお世話だと思います。
なぜなら、生徒は宿題がなくとも責任感をもって自主的に学ぶので、必要以上に先生が生徒に介入するべきではありません。
でも、本当にわたしたちは自主的に学ぶ要素をもっているのでしょうか!?
もし、わたし達が勉強をする理由が以下の要素にあるとしたら、人間の本性は悪だと思うのです。
- 宿題があるから勉強する。
- テストでいい点を取るために勉強する。
- 成績が良ければ褒められるから勉強する。
- 偏差値の高い大学にいけばいい会社に入れるから勉強する。
- いい会社に入れば年収が高いから勉強する。
一体、人間の本性は善なのでしょうか?それとも悪なのでしょうか?
韓国ドラマに頻繁に登場する監視カメラは、永遠に答えの出ない命題が頭のなかをくるくる回してくれます。