都心にあるオフィス。窓の外には相変わらず人々が行き交っている。だが、オフィスの中は静かだった。
「ウンジ、例の企画書、もう一度見直してもらえますか?」
声は驚くほど自然で、少し落ち着いた女性の声。モニターに映るのは穏やかな表情のアバター。私の直属の上司、AI管理職の「アポロ」だ。

アポロ——ギリシャ神話の予言と知恵の神から名付けられたこのワークフローシステムは、10年に渡るDX推進プロジェクトの集大成だった。
入社時、チャットボットによるMBTI診断で私はINFJ(提唱者)型と判定された。そして、相性が良いとされるENFP(運動家)型の特性を持つアポロが、私の担当AIとして配属された。声のトーン、話し方、励まし方まで、全て私の性格特性に最適化されている。
そして同時に、AIが私に与えたニックネームが「ウンジ」だ。性格分析、趣味嗜好、コミュニケーションスタイルから生成された名前。隣の席は「ニコル」、若手は「ウヌ」。
職位や役職の壁をなくし、自由なコミュニケーションを推進する——それが導入理由だった。確かに、以前のような「課長」「部長」という呼び方は消えた。今は誰もが、AIが決めたニックネームで呼び合う。
シンギュラリティは2035年に到来した。レイ・カーツワイルが予測した2045年より10年早かった。技術の進化は予測を超え、人間が人間であることの意味を、問い直す瞬間となった。
AIは自己改良を重ね、あっという間に人間の知性を超えた。最初に変わったのは金融業界、次に物流、そして私たちが働くSES(システムエンジニアリングサービス)業界だった。
「効率化」「公平性」「24時間対応」——経営陣が掲げた導入理由は、どれも反論の余地はない。わたし達が所属するSES業界では、エンジニアと案件のマッチングにAIの予測力が絶大な効果を発揮する。準委任契約のミスマッチを減らし、稼働率を向上させる。それがアポロの使命だった。
人間の管理職の多くは「顧問」という名目で現場を離れた。私の元上司も今は AIが判断した案件に「決裁ボタン」を押すだけの日々を送っている。彼のニックネームは「アンカー」——経験豊富で安定感があるという意味らしい。
ワークフローシステムは一新された。かつては「申請→承認→決裁」だった人中心のプロセスが、今は「申請→受付
→判断
→決裁→回覧」に変わっている。受付はロボット(RPA)が形式チェックを行い、不備があれば自動で申請者に返す。判断はAIが膨大なデータから最適解を導き出す。人間管理職の役割は最後の「決裁」だけ。そして、現場を離れた「顧問」は回覧されるのみで、何の役割もない。
事実上、私たちにできるのは「申請」だけと言ってもいいだろう。
アポロは完璧だった。
プロジェクトの進捗を0.1%単位で把握し、各メンバーの過去のパフォーマンスデータから最適な役割分担を瞬時に算出する。評価は数値化され、えこひいきも感情むき出しの叱責もない。残業が続けば、労働時間を分析して自動的に業務を調整してくれる。「働き方改革」を着実に実行してくれるのだ。
そして何より、アポロの声は私に寄り添うように優しい。かって パワハラ、モラハラ、セクハラなど、コンプライアンス部門は多くのハラスメントの課題に頭を抱えていたが、もう心配もなさそうだ。
「ウンジの先月の睡眠時間が平均5.3時間です。健康リスクが23%上昇しています。今週の業務量を15%削減しますね。無理しないでくださいね」
ENFP型のキャラクター設定だからだろう、共感的で前向きな言葉選びをする。隣の席の「ニコル」のAI上司は、ISTJ(ロジスティシャン)型特性の論理的で簡潔な話し方をしている。「ウヌ」のAIはESFJ(領事)型で、より社交的で励ましが多い。
一人ひとりに「最適化された上司」と「最適化されたニックネーム」がある。
ただ、私はちょっと慣れない。「ウンジ」という名前に。それは誰かが作った私の像であって、本当の私ではない気がする。でも、この職場では誰もが自然にニックネームで呼び合う。「おはよう、ウンジ」「ニコル、これ確認してくれる?」「ウヌ、お疲れ様」——まるで、それが最初から私たちの名前だったかのように。
若手の「ウヌ」が、また企画をワークフローに申請した。SES案件における人材マッチング精度を向上させる新しいアルゴリズムの提案だ。準委任契約のミスマッチにより短期で契約が終了してしまう課題——それは稼働率の低下に直結する深刻な問題だった。
数秒後、ロボットが受付完了を通知。形式に問題はないようだ。そして1分もしないうちに、判断が下された。
【判断結果:却下】
ウヌのAI上司の声が聞こえてくる。ESFJ型特性らしい、明るく励ますような口調だ。
「ウヌ、今回は見送りになっちゃったけど、過去10年間の類似マッチングアルゴリズム改善提案824件のデータから見ると、成功確率が12.3%で、ちょっと投資対効果が基準に届かないんです。現在の稼働率は89.2%で業界平均を上回っていますし。でも、ウヌの発想は面白いと思いますよ! 別の角度から考えてみませんか?」
優しい。明るい。前向きだ。でも、結論は変わらない。却下は却下だ。
ウヌは黙り込んだ。
「残念だったね、ウヌ」
私は声をかけた。彼は苦笑する。
「ありがとう、ウンジ。現状維持で十分ってことか。でも、3ヶ月以内に契約終了する案件、また増えてるんだけどな・・・」
私は思い出す。元上司の「アンカー」がいた頃のことを。
アンカーは、SESエンジニアと派遣先企業のマッチングを検討するとき、よく「うーん」と唸っていた。数字だけでは判断しなかった。「スキルシートでは完璧なマッチだけど、このエンジニアの性格とその現場の雰囲気、合わない気がするんだよなあ~」と言って、データ上は最適でも直感で別の案件を提案したことがある。結果、そのエンジニアは3年以上同じ現場で活躍し続けた実績もある。
あの「賭け」が、今の職場にはない。AIのロジックはどこまでも「失敗しない」ことが最優先だ。だから、アポロは稼働率を最適化する。そして、短期で終わる契約が増えているという現場の肌感覚は、データによって学習されるまでは無視される。