叡智の三猿

〜森羅万象を「情報セキュリティ」で語る

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怒りは正しかった。でも、あの一通は違った

メールによるハラスメントを受けた美容部員の物語です
登場人物

  • 田中さくら 美容部員/カウンセリング販売歴5年 名古屋・栄 マロニエ百貨店担当
  • 黒田エリアマネージャー 東海エリアマネージャー
  • 宮本 総務部 コンプライアンス課
  • 橋本 総務部 セキュリティ課
  • 松田 先輩美容部員
①届いたメール

木曜日の夜8時。田中さくらは、栄の百貨店美容フロアでの接客を終え、バックヤードでスマートフォンを開いた。

今月は、本当に厳しかった。

担当していたマロニエ百貨店栄本店が大規模改装に入り、カウンターが三ヶ月休止。長年通ってくれていた会員様との接点が、突然途絶えた。グランシア百貨店名古屋店でも、節約志向の影響でトライアルコースの成約が伸び悩んでいた。カウンセリング販売は、信頼関係を積み上げるのに時間がかかる。一度崩れたリズムを取り戻すのは、簡単ではない。

そのとき、通知が入った。

From: 黒田 哲也
To: 田中 さくら
件名: あなたの実績について
田中さん

お疲れ様です。東海エリアマネージャーの黒田です。

今月のカウンセリングコース成約率は31%、フェイシャルトライアルの販売本数は目標比58%。東海エリア内、最下位です。

マロニエ百貨店栄本店・グランシア百貨店名古屋店の両担当として、これだけの優良顧客基盤を持ちながら、この数字は到底納得できるものではありません。

率直に申し上げますが、あなたのような人間が、お客様のお顔に直接触れ、信頼関係を築くカウンセリング販売に向いているとは、私にはとても思えません。接客の基本姿勢、そしてお客様を引きつける人間としての魅力——そういったものを、あなたは持ち合わせているのでしょうか。

来月、数字で示してください。

以上

さくらは、メールをなんども読み返した。

成約率31%。それは知っていた。悔しかった。

でも——

「人間としての魅力」? 「向いていない」?

先月、グランシア百貨店名古屋店のカウンセリング中に、山田様が涙をこぼしながら「さくらさんに任せてよかった」と言ってくれた日のことを思い出した。名古屋に来てから五年。このカウンターで積み上げてきたものを、全部ひっくり返されたような気がした。

これは、数字の話じゃない。

指が、震えていた。

②送ったメール

気づいたときには、書き終えていた。

From: 田中 さくら
To: 黒田 哲也
CC: 全社員メーリングリスト(staff-all@beaute-xxxx.co.jp)
件名: Re: あなたの実績について
黒田エリアマネージャー

お疲れ様です。田中です。

今月のカウンセリングコース成約率・フェイシャルトライアル販売本数が目標を下回ったこと、深くお詫び申し上げます。

マロニエ百貨店栄本店につきましては、大規模改装によりカウンターが三ヶ月休止となり、長年ご来店いただいていた会員様との接点が途絶えた状態からの立て直しを図っておりました。グランシア百貨店名古屋店においても、主要顧客である山田様・鈴木様・加藤様をはじめとするVIP会員様へのフォローを継続しておりましたが、節約志向の影響で成約に至らないケースが増えております。

しかしそれを言い訳にせず、結果を出せなかった責任は受け止めております。

ただ、「カウンセリング販売に向いていない」「人間としての魅力を持ち合わせているのか」というご表現については、大変心外です。販売数字への評価と、人格・人間性への言及は、まったく別の話ではないでしょうか。

田中 さくら

送信

押した瞬間、目が止まった。

  • CC欄——staff-all@beaute-xxxx.co.jp

全社員のアドレスが、入っていた。

山田様、鈴木様、加藤様——お客様のお名前が、全社員に届いた。

胃がキリキリしてきた。

③バックヤードの空気

翌朝、百貨店カウンターのバックヤードに入ると、先輩の松田さんが、言った。

松田:「さくら、メール、みんな見てるよ。東海エリアだけじゃなくて、全国の子たちも」

さくら:「・・・知ってます」

松田:「黒田さんのこと、みんな『それは言い過ぎだよね』って言ってる。でも、お客様のお名前まで書いてあって」

さくら:「うん」

松田:「今日、本社から連絡来ると思う」

会社から支給されたスマートフォンが振動した。通知画面には「総務部 宮本」と表示されていた。

④総務部との面談

名古屋から新幹線で一時間、本社の小会議室。テーブルを挟んで、二人の女性が座っていた。

宮本(コンプライアンス課):「田中さん、コンプライアンス課の宮本です。名古屋から遠いところ、わざわざありがとうございます。まず最初に——責めるためにお呼びしたわけではありません」

橋本(セキュリティ課):「セキュリティ課の橋本です。宮本と一緒に対応させていただきます」

さくら:「よろしくお願いします」

宮本:「黒田エリアマネージャーから届いたメールを、見せていただけますか。田中さんが受け取った、原文のままで」

さくらはスマートフォンを差し出した。宮本は静かに読んだ。眉が、わずかに曇った。

宮本:「『カウンセリング販売に向いていない』『人間としての魅力を持ち合わせているのか』——これは、業務上の指導の範囲を明らかに超えています。しかも黒田さんは東海エリア全体を統括するエリアマネージャーです。その立場からの言葉は、現場への影響が非常に大きい。コンプライアンス課として、正式に調査を開始します」

さくら:「ありがとうございます」

宮本からバトンを受けるように、橋本が静かに口を開いた。

橋本:「田中さん、ここからは私の方からお話しさせてください。昨日の返信メール、全社員メーリングリストにCCを入れていましたね」

さくら:「はい」

橋本:「メーリングリストには、利用規程があります。緊急連絡や経営からの公式アナウンス以外での一斉送信は、事前に総務部の承認が必要です。ご存知でしたか?」

さくら:「知りませんでした」

橋本:「規程の話は、後ほど改めてご説明します。それより先に、一つ確認させてください」

橋本は、手元のプリントアウトをテーブルに置いた。さくらの返信メールだった。

橋本:「このメールには、マロニエ百貨店栄本店・グランシア百貨店名古屋店という取引先の名称が含まれています。そして——山田様・鈴木様・加藤様という、お客様のお名前が含まれています」

さくら:「はい・・」

橋本:「このメールが、全社員およそ三百名に届きました。田中さん、これは単なる社内情報の問題ではありません。お客様の個人情報です」

さくらは、息が止まった。

橋本:「山田様・鈴木様・加藤様は、会社に対してご自身の情報を提供してくださっています。それは、適切に管理されるという前提があってのことです。今回、そのお名前が三百名に送信されました。受け取った社員の中に、退職者や転職者が含まれていた場合、その情報がどこへ流れるか——もう、管理できない状態になっています」

さくら:「そこまで、考えていませんでした」

橋本:「怒りの中で書いたメールだったと思います。でも、感情の勢いで送られた一通のメールが、関係のないお客様を巻き込んでしまった。それがセキュリティ上の深刻な問題です」

しばらく、沈黙があった。

さくら:「山田様たちに、何か影響が出ますか」

橋本:「現時点では、社外流出は確認されていません。ただ、影響がないとも言い切れない。だからこそ、今後の対応を慎重に進める必要があります」

さくら:「私が間違えたんですね」

宮本:「黒田エリアマネージャーのメールは、問題があります。あなたが傷ついたのは当然のことです。それは変わりません」

橋本:「ただ——もし昨日、そのメールをそのまま私たちのところへ持ってきてくれていたら、お客様のお名前が三百人に届くことも、なかった」

さくら:「正しいルートが、あったんですね。名古屋にいると、本社は遠くて。何かあっても、エリアの中で解決しなきゃいけない気がしてて」

宮本:「それは、田中さんだけじゃなくて、地方担当の子たちが皆そう思ってます。だから今日、こうしてお話しています。次からは、距離は関係ない、私たちを使うようにしてください」

⑤調査結果の連絡

二週間後。宮本からさくらの携帯に、電話が入った。

宮本:「田中さん、調査結果をお伝えします。黒田エリアマネージャーのメールは、パワーハラスメントと認定されました。特に、カウンセリング販売という対人スキルを核とする職種において『人間としての魅力』を否定する表現は、悪質性が高いと判断されました」

さくら:「黒田さんは、どうなりますか」

宮本:「厳重注意処分と、管理職向けハラスメント研修の受講が決定しました。また、東海エリア内の美容部員全員に対して、コンプライアンス相談窓口の周知を改めて行うことになりました。エリアマネージャーという立場上、影響範囲が広いと判断されたためです」

さくら:「わかりました。それと、お客様への対応は」

宮本:「橋本の方から、続けて説明があります」

電話口が、切り替わった。

橋本:「田中さん、セキュリティ課の橋本です。山田様・鈴木様・加藤様の件ですが、今回の情報送信について、会社として正式にご報告とお詫びをすることになりました。田中さんにも、その旨をお伝えしておきます」

さくら:「そうですか。私からも、お詫びをしたいのですが・・・」

橋本:「その気持ちは、上長と相談の上、適切な形で伝えましょう。焦らずに、正しい順序でね」

さくら:「はい」

橋本:「田中さん自身の処分については、セキュリティ規程に関する確認書のご提出と、個人情報保護研修の受講をお願いしています」

さくら:「あの、始末書も、書かせてください。CCのことは、感情に任せてしまいました。お客様のお名前まで書いてしまったこと、自分の責任としてちゃんと残したいので」

しばらく間があった。

橋本:「わかりました。受け取ります」

⑥お客様との再会

三ヶ月後。

さくらは今日も、栄のマロニエ百貨店美容カウンターに立っていた。改装を終えたカウンターには、久しぶりに顔を見せてくれる会員様たちが、少しずつ戻ってきていた。

先日、グランシア百貨店名古屋店で山田様にお会いした。会社からのお詫びの連絡について、山田様は「さくらさんが大変だったのね」と、逆に気遣ってくださった。その言葉が、胸に刺さった。

お客様を、巻き込んでしまった。あの怒りは正しかった。でも、あの一通のメールは——正しくなかった。

バッグの中には、総務部が東海エリア全員に向けて配布した小冊子が入っている。

『お客様だけでなく、自分自身も守るために』
——不当な扱いを受けたと感じたとき、あなたができること——

✔ メールやメモで、記録を残してください
✔ お客様の情報を、感情のままに使わないでください
✔ エリア内だけで解決しようとしなくていいです
✔ 本社は、遠くありません

📩 コンプライアンス相談窓口(宮本)
📩 情報管理・セキュリティ相談窓口(橋本)

あなたの声を待っています。

お客様が、カウンターに近づいてきた。改装前から通ってくれている、常連の女性だった。

お客様:「さくらさん、久しぶり。カウンター戻ってきてよかった。やっぱりここじゃないとね」

さくらは、まっすぐに目を見て、微笑んだ。

さくら:「おかえりなさい。お肌の調子、見せてください」

怒りは、正しかった。でも、怒りのままに動くことと、正しく動くことは違う。

不当な扱いを受けたときほど、正しいルートを選ぶ力が、自分を守る。そしてお客様を守る。

マロニエ百貨店に、午後の光が、差し込んだ。