ボブ・ディランの『Like a Rolling Stone』が、ラジオから流れていた。2028年のソウル、漢江を見下ろす高層ビルの一室。韓国期待の女性大統領候補、キム・ミョンヒの選挙対策本部だった。
「候補、休憩を取られては?」秘書が心配そうに声をかけたが、ミョンヒは首を振った。窓の外、夜の街は輝いている。統一を公約に掲げた彼女の支持率は急上昇していた。だが、彼女には秘密があった。
その秘密の名は、ジュンホ。
脱北者のジュンホは、かつて北朝鮮の電子戦部隊にいた。彼が韓国に持ち込んだのは、テンペスト攻撃の最新技術だった。そして三ヶ月前、ミョンヒの警護中に偶然出会って以来、二人は立場を超えて惹かれ合っていた。
政治家と脱北者。許されぬ愛だった。
ジュンホのアパート、仁寺洞の裏路地。壁一面に並ぶのは、アンテナ、オシロスコープ、スペクトラム・アナライザー。そして中央に鎮座するのは、彼が「ベートーヴェン」と名付けた特殊な受信装置だった。
深夜、密かに訪れたミョンヒが尋ねた。
「なぜベートーヴェンなの?」
「聴こえないものを聴く者、という意味です」
ジュンホは答えた。「ベートーヴェンは耳が聞こえなくなっても、振動を感じて音楽を作曲した。この装置は、人間の耳には聞こえない電磁波の歌を聴くんです」
「電磁波の歌...」ミョンヒは装置に触れた。二人の指が触れ合い、一瞬、時が止まった。
その時、ジュンホの携帯が鳴った。情報セキュリティ専門家のエヴァからだった。彼女はベルリンからソウルに飛んできていた。
「大変なの。青瓦台の機密システムから情報が漏れている。物理的に完全に隔離されたシステムなのに」
ジュンホの顔が強張った。「テンペスト攻撃だ」
ミョンヒが問う。「それは何?」
エヴァはジュンホの言葉に頷く。
「コンピューターのディスプレイやケーブルから漏れる微弱な電磁波を傍受して、画面の内容を復元する技術です。物理的に隔離されていても、電磁波は壁を超える」
そう言ってエヴァは表を書いた。
| 対象 | 電磁波の強さ | 情報の再現度 | 情報の重要性 |
|---|---|---|---|
| ディスプレイの画面情報 | 強い | 容易 | 大 |
| キーボードの打鍵情報 | 弱い | 困難 | 中 |
| プリンターの印刷情報 | 弱い | 困難 | 中 |
| 無線LANの通信情報 | 弱い | 困難 | 中 |
「ディスプレイに表示される情報は、機密性が高く、攻撃の標的にあいやすいの」
エヴァが続けた。「犯人は青瓦台から500メートル離れたカフェにいたと思われる。でも証拠がない」
ミョンヒの表情が変わった。「漏洩した情報の内容は?」
「南北統一交渉の極秘プロトコルです」
沈黙が落ちた。ディランの歌声がジュンホの脳裏に木霊する。
How does it feel, to be on your own...
「僕たちが見ている世界は、ほんの一部なんです」ジュンホは言った。「目に見える光は電磁波のごく一部。僕らの周りには、見えない波の海がある。すべての電子機器は、その海に波紋を投げかけている」
ミョンヒは理解した。「つまり、私の選挙対策本部も...」
「監視されている可能性があります」
三人は、問題のカフェの近くに観測機器を設置した。深夜の調査。ジュンホは一人で装置を調整していた。オシロスコープの波形が踊る。ベートーヴェンの第五交響曲が、彼のヘッドフォンから流れていた。
そのとき、彼は気づいた。交響曲のリズムと、捉えた電磁波のパターンに、奇妙な相関があることに。
「まさか...」
彼は急いでミョンヒとエヴァに連絡した。
「犯人はベートーヴェンを使っている。第五交響曲の特定のパターンに同期させて、データを変調しているんだ。電磁波の中に音楽を隠している」
エヴァは理解した。「タイミング攻撃の一種ね。ランダムなノイズに見せかけて...」
「そう。誰も、ベートーヴェンの中にデータが隠されているとは思わない」
調査は急速に進展した。そして真実が明らかになったとき、三人は愕然とした。
犯人は北朝鮮の工作員ではなく、韓国の情報機関の一部だった。彼らの目的は、統一交渉を妨害し、ミョンヒの政治生命を断つこと。そして、ジュンホとミョンヒの関係を暴露することだった。
「候補と脱北者の秘密の関係。メディアに流せば、あなたのキャリアは終わりです」エヴァが警告した。
ミョンヒはジュンホを見つめた。「私たちの関係が明るみに出れば、統一の夢も消える。でも...」
その時、新たな緊急連絡が入った。北朝鮮が軍事演習を開始。南北の緊張が一気に高まっていた。そして、謎のサイバー攻撃が韓国の重要インフラを襲い始めた。
「これは罠だ」ジュンホが叫んだ。「僕を知っている。北の手口じゃない。誰かが南北を衝突させようとしている」
ミョンヒは決断した。「真実を公表する。私とジュンホの関係も、この陰謀も、すべて」
「候補、それは...」
「いいえ。この大地にあるものはすべて、消え去るのだ。そして、今の実体のない見世物が消えたように、あとには雲ひとつ残らない。私たちは、夢を織り成す糸のようなものだ。そのささやかな人生は、眠りによって締めくくられる」
ジュンホが驚いて顔を上げた。「それは...」
「シェイクスピアの『テンペスト』よ。あなたが教えてくれた。この技術の名前は偶然じゃないって」
ミョンヒは記者会見を開いた。全世界が注目する中、彼女は語った。
「私は脱北者のジュンホと愛し合っています。それが罪だと言うなら、喜んで罪を受け入れます。でも、南北の人々が愛し合うことが罪ならば、統一など永遠に不可能でしょう」
そして彼女は、情報機関の陰謀、テンペスト攻撃、そのすべてを暴露した。ジュンホの技術協力により、証拠も提示した。
会見場は騒然となった。だが、予想外のことが起きた。
人々は、ミョンヒを支持したのだ。
「愛に国境はない」「これこそ本当の統一だ」SNSには支持のメッセージが溢れた。
北朝鮮からも、思わぬ反応があった。軍事演習が中止され、対話のメッセージが届いた。ジュンホの母親が、38度線の向こうから、息子への愛のメッセージを送ってきた。
ジュンホの頭のなか、ディランのしわがれた声が、リフレインする。
The answer, my friend, is blowin' in the wind...
ジュンホのアパートで、二人は抱き合っていた。窓の外、漢江が静かに流れている。

「僕らは電磁波の海に浮かぶ夢だ」ジュンホは言った。「すべての情報は、やがて消える。国境も、立場も、すべては幻影だ」
「でも」ミョンヒは彼の手を握った。「だからこそ、今この瞬間に意味がある。ベートーヴェンは聞こえなくても音楽を創った。私たちも、見えない壁を壊そうとする。それが人間なのよ」
エヴァは、ベルリンへの帰路についた。彼女は微笑んだ。テンペスト攻撃という技術が、皮肉にも、真実を暴き、愛を守り、平和をもたらした。
答えは風に吹かれている。そして電磁波の中にも。見えないものの中にこそ、真実がある。
ミョンヒは大統領に選ばれた。ジュンホは統一委員会の技術顧問となった。二人は、新しい時代を築くために歩み始めた。
それが彼らの生きる、儚くも美しい夢なのだから。
三年後、38度線に初めての共同技術センターが設立された。開所式では、第九が演奏され、愛と喜びの歌が南北を超えて響いた。
ジュンホとミョンヒは、センターの前に立っていた。彼らの手には、生まれたばかりの娘が抱かれていた。
「何という名前にする?」ジュンホが尋ねた。
「ハーモニー」ミョンヒは答えた。「見えない波が織りなす、美しい調和。それが私たちの物語だから」
すべては夢のように儚い。でも、その夢が現実を変える。
電磁波の海に、新しい愛が生まれた。