2026年1月30日(金)
わたし、美咲は都内にある大手メーカーの経理部で働く派遣事務員です。

いま、オフィスは静かな混乱に包まれているようです。隣の席の正社員・古川さんのPCは、また入金消込の「処理中」の表示が出たまま固まっています。彼女は溜息をつきながら、私のPCを覗き込んでこう言います。
「美咲さんのPCは快適そうでいいわね~」
私のPCは新しい。登録している派遣会社のBYOD(Bring Your Own Device)方式で、この会社に持ち込んだものです。会社のVPNを通じて、社内システムに自由にアクセスできます。セキュリティ要件を満たした上で、派遣会社が管理しています。OSのWindows 11が快適に動きます。でも、正社員たちのPCはそうではなさそうです。
2025年7月23日(水)
会社帰り、渋谷で社内SEの健太と渋谷のタイレストランで夕食をしました。半年前、私のPCトラブルを解決してくれたのがきっかけで付き合い始めた彼氏です。ただ、社内では秘密にしてます。
「来週から大規模なプロジェクトが始まるんだよ。Windows 10のサポート終了対応で、3500台のPCを移行するんだ・・・」
「それは、大変そうだね」
「正直、不安だよ。1500台をアップグレードで済ませるって計画だけど、ユーザーがローカルに大量のデータ保存してるし、スペックもギリギリだし。でも田中部長は『問題ない、簡単だ』って。10月までまだ3ヶ月あるし、8月から始めれば9月には終わるって・・・」
美咲は箸を置きました。健太の言葉は、もちもちとしているはずのパッタイの食感も心なし、パサパサして味気なく感じました。
私は「そうなんだ」と頷きました。
2025年9月1日(月)
先週末から経理部でアップグレードが始まりました。
金曜の夕方、健太が私の部署に来ました。心なしか表情が硬く見えます。
「今週末にアップグレードします。月曜の朝には、終わっているはずです」
そして朝、出社すると、部署中が騒然としていました。
「PCが使えない!」
「エラーが出てるよ!」
正社員の半分がPCの前で途方に暮れてます。みんなIT部門に問い合わせしてます。
「そもそも、月初の繁忙期になぜ、経理のパソコンを更新するんだ!」
経理部長が怒って、健太を呼び出しました。
2025年9月2日(火)
アップグレードに成功したはずの山田さんのPCが、異常に遅くなりました。
「美咲さん、この月次決算の処理、あなたのPCでやってもらえないですか?私のPCだと終わらないよ~」
山田さんは困り果ててました。普通なら明日に終わる処理です。
夜、健太と食事をしました。
「今日も3台アップグレードして、全部失敗」健太は疲れ切っています。「昨日の夜10時に始めて、今朝見たらまだ『処理中』。結局12時間経っても終わらなくて・・・」
「え~!」
「スペックがギリギリだと、そうなる。最初から心配してたんだよ。でも部長は『システム要件を満たしてるから大丈夫』の一点張りで・・・」
「新しいPCは調達できるの?」
健太は苦い顔をしました。
「それも俺が懸念してたんだけど、2000台発注したのに、まだ800台しか確保できてないんだ。ベンダーが『世界的な需要増で』って言ってる。同じタイミングで世界中の企業が調達するんだから、絶対リスクがあるのに・・・」
2025年10月14日(火)
Windows 10のサポートが終了しました。
健太から個別チャットが来ました。
「今日から正式にサポート切れだよ。でもまだ1000台がWindows 10のままだよ。ESUの契約(2025年10月14日のサポート終了後も、重要セキュリティ修正を最大3年《法人》延長して受け取れる有料サービス)したけど、コストがすごいことになってる。部長が役員に怒られてたよ」
昼休み、カフェテリアで、IT部門の若手が話しているのが聞こえました。
「毎週末、アップグレード作業してるんですけど、失敗率が30%もあるんだよ」
「みんな、Cドライブに大量のデータ保存してて、移行をお願いしても『忙しいから後で』って、言われて困るよな~」
私は何も言えません。これは、私の戦いじゃないから・・・。
2025年11月27日(木)
山田さんが嬉しそうに言ってきました。
「美咲さん、私のPC、Windows 10に戻してもらったの!」
「え、戻したの?」
「そう。Windows 11にしたら遅すぎて仕事にならなかったから。IT部門が特別に対応してくれたよ。これで来月の決算、無事に乗り切れるかも!」
その夜、健太は落ち込んでました。
「8時間かけてアップグレードして、使えないって言われて、また元に戻す作業だよ。何やってるんだろうって思うよ。ホントに」
「大変だね」
「それだけじゃないよ。営業では、個人のノートPC持ち込んで仕事してる人が結構いるんだよ」
「それって、マズくない?」
「非公式のBYODだよ。もちろん、VPN接続は許可できないから、USBメモリでデータ移してオフライン作業だよ。セキュリティ的に最悪なんだけど、会社のPCが使えないから黙認するしかないんだよね・・・」
そして、2026年1月30日(金)
経理部では、まだ10人がWindows 10のPCを使ってます。
その夜、健太から聞きました。
「まだ600台がWindows 10のまま。ダウングレードした端末が250台。データ移行中が200台。新規PCが未納品で600台・・・1000以上が、まだ問題を抱えてるんだよ」
「新しいPCは来ないの?」
「もう、分からないんだ」
健太は疲れた顔をしてます。
「セキュリティ部門の佐藤さんが毎日のように警告してくるよ。『ローカルに大量のデータを保存したWindows 10端末は時限爆弾だ』って。サポート切れだから新しい脆弱性が見つかっても対策されない。しかも、ローカルに何年分もの顧客データが入ってるかもしれない。一台でも感染したら、そのデータ全部が流出するリスクがあるという」
そういえば、ネットで「ダウングレードしたPCがボットネット化した事例」のような記事を見た記憶があったのを美咲は思い出しました。
私は、この会社で3年働いています。スーパー事務員、と呼ばれることもあります。
でも、私は派遣。この問題の当事者ではありません。
私のPCは快適に動きます。Windows 11で、メモリは16GB、SSDは十分な容量がある。派遣会社のBYOD制度で、VPN接続で基幹システムも会計システムも、正社員と同じように使えます。
一方で、正社員たちは、ローカルに蓄積された何年分もの業務データ、長い処理時間、朝出社したらエラー画面、そして世界的なPC不足に苦しんでいるようです。
健太は毎週末、アップグレード作業に出てます。金曜の夜に始めて、月曜の朝を祈るルーティン・・・。
定時後、私は帰り支度をします。派遣の私は、残業することがありません。
IT部門のフロアを覗き込むと、健太はまだ席にいます。今夜も、50台のアップグレード作業が始まるようです。
「気をつけてね」
心のなかで、健太に言葉をかけます。彼は疲れた笑顔を見せてくれました。
外からオフィスの明かりが見えました。それは、静かなる不夜城に見えました。
