いまから6年まえ、息子が中学生だった頃、授業参観に行くことが何回かありました。そのときに、妙な違和感を覚えたのをいまも記憶してます。
授業を受ける生徒の態度が素晴らしいのです。ほとんどの生徒が姿勢正しく、先生からの質問に手をあげて答えようとするのです。
それは、自分の中学時代(昭和50年代)にはありえない光景です。
もちろん、真面目に授業を聞いている生徒は当時もいます。しかし、それは多く見積もって2割くらいでしょうか・・・。勉強ができない生徒は、授業中、落ち着きなく、しゃべってます。勉強ができる生徒は、授業を聞く必要がないので、「受けたくないよ~」という態度に現れてます。
ともすれば、崩壊しそうな授業を先生は必至になって統制をはかっているように見えました。
授業参観で父母が見ている場面でも、その態度は変わりません。
授業の統制が取れない先生は、本来の科目を教えるのではなく、あえて「学級会」にしたこともあります。
今日は、本来のみんなの活動をお父さん、お母さんに見てもらうため、授業は学級会にします!
先生はそう言ってましたが、それは方便であることは、子ども心に分かりました。
成立しない授業を生徒の親にさらすのは、先生として耐えきれなかったんだと思うのです。
公立中学の授業は生徒が聞かないのが、普通だと思ってました。
だから、息子の通っていた中学校の授業がちゃんと成立していることに違和感を覚えたのです。
生徒の授業態度がいいのはひとえに「内申」をあげるためです。内申をあげることで、より偏差値の高い高校に進学できます。偏差値の高い学校にいけば、難関大学への展望が開けます。難関大学を卒業すれば、いい会社に就職できるでしょう。
「内申」が高校受験に於いて重要なのは、むかしも同じです。
神奈川県を例にとれば、昭和時代は、内申書、学力試験、アチーブメントテスト(神奈川独自の方式)によって、行ける高校が決まってました。
- 内申書:中学2年3学期、3年2学期の10段階の内申(50%)
- アチーブメントテスト :中学2年の3学期に9教科(国語・数学・理科・社会・英語・美術・体育・音楽・技術家庭)の試験(20%)
- 学力検査 :3年3学期に実施される5教科(国語・数学・理科・社会・英語)の試験(30%)
この基準をみれば、中学校2年の終わりには、行ける高校はほぼ確定する状況です。内申を半分見ている(しかも10段階評価)ので、授業態度を真面目にしなければ、受験がヤバいことが分かります。
それでも、当時は先生による授業の統制が効かなかったのです。
おそらくむかしは、いまに比べると「社会」と「学校」の距離感があったからだと思ってます。学校が社会から独立していれば、生徒は社会への意識をあまり持つことはありません。
それは、必ずしも悪いことではありません。学校が社会の求める短期的な利益や、政治的な影響を受けすぎると、教育の自立性を損ないます。教育による生徒の多面的な成長を損なうリスクがあります。
生徒の多面的な成長は、とても大事だと思います。でも、学校教育から社会に出るなか、多面的な面を評価されることは殆どありません。
昭和と違い、いまはSNSなどの浸透によって、情報の流通が激しくなりました。「社会」と「学校」の距離が縮んでしまったようです。
個人的に「変だな~」と思うのは、SNSやYouTubeを見ると、何を根拠に算定した情報なのかの真偽不明なものが多いことです。たとえば出身大学別の平均年収をランキングとして拡散している情報があります。その情報を見ると、偏差値が高く、難関大学と呼ばれる大学だと年収が高くなることが分かるようになってます。でも、その数値がどのように収集されたのかの出所は明らかではありません。
会社の人事部門では従業員の出身大学を管理し、当然、給与も把握しているでしょう。しかし、その情報を外部に公開できないはずです。
個人情報保護法では、企業が個人情報を適切に管理する義務が課せられています。従業員の学歴や年収も当然、個人情報に該当します。会社が個人情報を「利用」「取得」するときは「利用目的」を明らかにする必要があります。従業員には「利用目的」を通知する必要があります。わたしは会社から、自分の学歴や給与を外部に公開したいなんて言われたことは一度もありません。
真偽不明な情報が「社会」から「学校」へと真実のように流通することに不安を感じます。
小学校に於いて、先生の評価は画一的で、多面的とはいえません。中学校ではよりいい高校に入るため、内申をあげるために、生徒は素晴らしい授業態度をとります。高校では早い段階で行くべき大学の方向性を定め、志望校にあったカリキュラムを受けます。
そのなか、大学だけが、唯一、多面性を認める空気が残ってます。ただ、2000年代に入り「GPA(共通化された成績評価の指標)」を採用する大学が増えてます。多面性を評価する環境もいずれ減ってくるかもしれません。
就職が決って
髪を切ってきた時
もう若くないさと
君に言い訳したね
君も見るだろうか
「いちご白書」を
二人だけのメモリー
どこかでもう一度
~「「いちご白書」をもう一度(バンバン)1975年」
大学から社会にでると、再び多面性を評価されることはありません。企業の定めた尺度によって均一化された評価がずっと続きます。